ベトナムの塔婆の概要と歴史

 (1)概要
 
 現在のベトナム各地に建てられている塔は、中国の影響を強く受けた層塔である。これはベトナム北部が長く中国の支配下にあり、その後のベトナム人の諸王朝が中国文化の影響を強く受けてきたことによる。さらにベトナム人は南方へ進出し、中部から南部のチャム人のチャンパー王国や、クメール人居住地の南部のメコン川下流域を併合した。北部には陳朝の14世紀以後の数基の塔婆が現存する他、近年に建立された鉄筋の層塔をベトナム各地に見ることができる。
 
 
 (2)南部の扶南王国(1世紀末~)とカンボジア王国領(7世紀中頃~18世紀)
 
   ベトナム南部のメコン川下流域には、1世紀末頃から扶南国が建国された。建国した民族はクメール系とも、オーストロネシア系ともいわれている。4世紀ころからインド化がすすんだ。7世紀中頃にはカンボジアが進出し、クメール人の真臘が扶南を滅ぼし、アンコール朝にかけてこの地を支配した。ただし、扶南からクメール朝の仏塔はベトナムには残されていない。
 
 
 (3)中部から南部のチャンパー王国(2世紀末~1471年または17世紀)
 
 ベトナム中部から東南部は、2世紀末にチャンパーが、チャム人により建国された。(チャンパーは、中国の史料では、初めは「林邑」、7世紀頃には「環王」、9世紀頃からは「占城」と表記される)この地は建国前は後漢の日南郡の領域であったが、3世紀からインド化がすすみ特にヒンドゥー教の影響を強く受けるようになり、15,6世紀頃までに多く建立されたヒンドゥー教寺院の遺構が現存する。しかし、ストゥーパも建てられていた仏教寺院のドンジュオンは、ベトナム戦争により遺構は破壊され、チャンパーの仏塔を現在、見ることはできない。
 
 
 (4)北部の中国王朝支配(前111~10世紀)
 
   ベトナム北部は、秦の滅亡期に漢人により前203年に建国された南越の一部であった。前111年に漢の武帝により征服さ北部から中部にかけて交趾郡・九真郡・日南郡が設置されて以来(日南郡域は後漢末期にチャンパーが成立)、唐の滅亡までの約1000年間、概ね中国の諸王朝の支配下に置かれてきた。この地に初めて仏教が伝わったのは後漢支配下の2世紀頃のこととされ、インド僧が法雲寺、法雨寺、法雷寺、法電寺の四ヶ寺を建立したという。544年に梁から独立し建国した万春(前李朝)は、602年に隋に滅ぼされるまで50年余り続き、この時期に鎮国寺が建立された。さらに隋の支配下では、文帝の仏舎利塔建立はベトナム北部の交趾郡にも及び、法雲寺に仏舎利塔が建立された。これら当時の仏塔は現存していない。
 
 
     
 永慶寺屏山塔(陳朝)  普明寺普明塔(陳朝)  天姥寺福禄塔(阮朝)
 
 
 (5)大越国(1225~1802年)
 
  唐の滅亡後の五代十国の混乱に乗じてベトナム人の自立の動きが強まり、1009年に李朝が成立し、1054年以降「大越」を国号とした。大越の王朝は1225年に陳朝、1428年に黎朝に変わった。
 
 ① 李朝1009~1225年)
 ハノイを都とし、仏教を信仰して多くの寺を建立したが、この時期の仏塔は現存していない。
 
 ② 陳朝(1225~1400年)
 ハノイを都とし、前王朝と同じく仏教を信仰して多くの寺を建立した。ヴィンフックの屏山塔とナムディンの普明塔は、この時期に建立された仏塔の貴重な遺構例である
 
 ③ 黎朝(1428~1789年)
 15世紀初頭にベトナムを支配した明を追い出し、やはりハノイを都として建国した。1471年にはチャンパーを事実上の滅亡に追い込み、領土ほベトナム中部に拡大した。この王朝は儒教を信奉したため前代に比して仏教は勢いを失ったが、仏教寺院の建立は続いた。パクニンの寧福寺の報巌塔や尊徳塔は17世紀半に建てられた石造の墓塔である。1527年に黎朝から王位を奪った莫朝が約65年間続いたが、この王朝は仏教を信奉した。
 
 ④ 広南国(1558~1777年)

 黎朝は、重臣の阮氏と鄭氏によって復興されたが、実質的には北部は鄭氏がハノイと王家をおさえて実権を握った。一方、阮氏はフエを本拠として、ベトナム中部に実質的な独自政権の広南国を樹立した。広南阮氏は、北方の鄭氏と争うとともに南方へ進出し、南部へ領土を拡大し、メコンデルタをカンボジアから奪った。フエに天姥寺が建立されたのは1601年と伝えられる。さらにホーチミンの覚林寺は18世紀後期に創建されたという。
 
 ⑤ 西山朝(1778~1802年)
 1771年に広南国に西山の乱が発生し、広南国と北部の鄭氏政権を倒して黎朝を滅ぼした。ハタイの酉方寺の建築はこの時期のものである。
 
 
 (6)越南国 阮朝(1802~1945年)
 
  1802年に広南阮氏が西山朝を打倒して、1804年に清から越南国王に冊封され、フエを都として現在のベトナムにほぼ一致する領域を支配した。しかし、19世紀後半からフランスの進出が強まり、1887年にカンボジアとともにフランス領インドシナ連邦とされた。阮朝は形式的にはフランスの保護のもとで存続したが、実権を全く失った。天姥寺の福禄塔が建立されたのは1884年である。
 
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