西トルキスタンの塔婆の概要

(1)西トルキスタンの仏教遺跡

 トルキスタンの呼称は「テュルク(トルコ)の土地」を意味し、パミール高原を境に東西に分けられる。
 西トルキスタンは現在、一般的にはキルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンにカザフスタンを含める地域であり、これらの国々を今日、中央アジア諸国ともよんでいる。ただし、ユネスコの中央アジアの定義はさらに広範囲に及ぶ。また東トルキスタンは、中華人民共和国が支配している新疆ウイグル自治区にあたる。
 西トルキスタン内で仏教遺跡または遺物の出土が確認されているのは、バクトリア地方(タジキスタン南部、ウズベキスタン南部、アフガニスタン北部)、と、その北のソグディアナ地方(ウズベキスタン東部、タジキスタン西部)、さらにその東のフェルガナ地方(ウズベキスタン東部が中心)、セミレチエ地方(キルギス北部、カザフスタン東部)、マルギアナ地方(トルクメニスタン東南部)である。ただし、その総数は30ヶ所ほどである。
 
バクトリア(トハリスタン)地方
 バクトリア地方に仏教が伝わったのは、アケメネス朝(前550~前330)の属州(マルギアナも含まれる)であった頃からという説もあるが、一般的にはバクトリア王国(前255~前139)の時代に遡ると考えられる。その後、この地はトハラ、大月氏と支配者が代わり、クシャーナ朝(1~3世紀)の時期に仏教は隆盛を迎えた。このクシャーナ朝は大月氏(ソクデイアナ、バクトリア地方が勢力圏)から、クシャーナ族(イラン系、月氏の一族、バクトリア地方の土着勢民族などといわれ)が自立して建国した王朝である。カニシカ王(130頃~170頃)が全盛期でプルシャプラを都とし、西トルキスタンからガンジス川中流域までを支配した。王は仏教を保護し、その治世にはガンダーラ美術も発達した。クシャーナ朝が衰退した後、エフタル(5~6世紀)ついで突厥(7世紀)などがこの地域を支配した。7世紀前半における仏教の状況については玄奘の『大唐西域記』に記されている。バクトリア地方の仏教遺跡はクシャーナ朝さらにクシャーノ・ササン朝(ササン朝の藩王が支配)の2~4世紀と、西突厥などの7~8世紀のものである。
 
ソグディアナ地方
 ソグディアナ地方はイラン系のソクド人が居住したことからつけられた名で、アケメネス朝をはじバクトリアさらに大月氏、康居(現在のカザフスタン南部にあったソグド人の国)、クシャーナ朝、エフタル、突厥、ササン朝など周辺の大国の支配を受けた。しかし、ソグド人は独自のソグド語、ソグド文字を守り、ゾロアスター教を信奉し、交易で活躍した。現在、ソクディアナ地方に仏教寺院の遺跡は確認されていないが、ペンジケント遺跡(現在のタジキスタンソクド州)の神殿跡から15㎝程の仏坐像の粘土製母型などが発見されている。また、玄奘三蔵の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』の「康国(サマルカンド国)」には荒廃した仏寺の記述がある。
 
フェルガナ地方
 フェルガナは漢代には「大宛国」とよばれ、名馬の産地として知られていた。この地方にも古くから仏教は伝わったと思われるが、クワの仏教寺院は7~8世紀のものである。
 
セミレチエ地方
 セミレチエは「7つの川」を意味するロシア語である。この地方の仏教がバクトリア、東トルキスタン、支那のいずれから伝来したのかは定かではないという。6世紀末には西突厥がこの地のスイヤブ(キルギスのトクマク南郊)に本拠地を置いた。またこの地域ではソクド人が活動し、玄奘三蔵は『大唐西域記』に、この地方とフェルガナ地方も含めて「窣利(ソグド)」としている。この地方の寺院については玄奘三蔵の記述にはないが、アクベシム、クラスナヤ・レーチカ、ノヴォポクロフスコエに仏教寺院遺跡が確認されている。これら寺院は概ね7~8世紀に創建されたものとされる。
 
マルギアナ地方
 マルギアナ地方に仏教が伝わったのはイラン人が建国したパルティア王国(前248~226)の時代に遡り、バクトリア方面から伝わったとも考えられる。後漢の148年に洛陽に来て仏典の翻訳に従事したパルティア出身の安世高は有名である。その後、ゾロアスター教を国教とするササン朝(226~651)の領土の一部となるが、この帝国内では仏教、キリスト教、マニ教なども信仰されていた。仏教西漸の最西端の遺跡として有名なメルブのギャウルカラ南東隅の仏教寺院は4~6世紀に存続したといわれている。
 
 7世紀後半からアラブ人のイスラーム勢力が西トルキスタンにも進出してきた。トルキスタンには9世紀後半にイスラームのイラン系のサーマン朝、トルコ系のカラ=ハン朝などが成立するなど、イスラーム化がすすみ、仏教は消滅していった。
 
 
(2)西トルキスタンの仏塔(ストゥーパ)
  
仏塔の所在地
 これまで西トルキスタンで確認された仏塔は少ない。ソクディアナ、フェルガナ、セミレチエ地方では発見されておらず、マルギアナ地方では現トルクメニスタンのメルヴに2基確認されている。バクトリア地方は仏教遺跡が比較的多く発見されている。ヒンドゥークシュ山脈以北、アム河以南の南バクトリア(現アフガニスタン)、アム河以北、ヒッサール山脈以南の北バクトリア(現ウズベキスタン、タジキスタン)のいずれも仏塔が確認されている。
 
仏塔の特徴
 西トルキスタンの仏塔は、クシャーナ朝期にガンダーラで発達した仏塔の特徴をもつ。その特徴とは、①塔身は頂部が半球となる円筒型の塔身、②方形基壇である。ただし、方形基壇は長方形となることもある。また、ガンダーラのストゥーパより細部が簡略化され、基壇の壁柱などはみられない。
 7世紀以後になると十字型から複雑に突出させる星型の基壇が現れる。建築材料は日干し煉瓦を用いる。
  西トルキスタンに現存する仏塔は、ほとんど基壇部しか残存しておらず、塔身まで残存する仏塔はズルマラ塔や、ファヤズ・テパの塔、カラ・テパ北丘のストゥーパの原塔が挙げられる他は、出土した小規模な奉献塔、カラ・テパ洞窟寺院の壁面の絵画などがある。
 

 ファヤズ・テパのストゥーパ模型
  (ウズベキスタン国立博物館)
  
   ファヤズ・テパのストゥーパの発掘時の写真(ウズベキスタン国立博物館)
 
     ファヤズ・テパの模型(テルメズ考古学博物館)      
 
ファヤズ・テパの推定復元図(ウズベキスタン国立博物館)


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