スリランカの仏塔の概要

 紀元前5世紀に北インドより移住したシンハラ人の祖先によりアヌラーダプラを都として王国が建設された。11世紀に南インドのチョーラ朝の侵入をうけ、都をポロンナルワに都を遷した。13世紀にはチョーラ朝の侵入が激しくなり、都はダンバデニヤ、ヤーパフワ、クルネーガラ、ガンポラ、コーテと遷された。そして、1592年からはキャンディに都がおかれたが、これと並行して16世紀からはポルトガル、17世紀からはオランダ、18世紀からはイギリスがスリランカの植民地化をすすめ、1815年にはイギリスにより王国は滅ぼされた。
 スリランカへ仏教がインドから伝えられたのは前3世紀中頃とされたと伝承される。アショーカ王によりスリランカに派遣された王の子マヒンダが、ミヒンタレーでデーヴァーナンピヤ・ティッサ王の帰依をうけたのが仏教の初伝である。その後、スリランカへの仏教の受容は順調におこなわれた。3世紀には大乗仏教さらに8世紀には密教が伝えられ、アヌラーダプラを中心に島内に多くの堂塔が建立された。

スリランカの仏塔
 スリランカでは仏塔を「ダーガバ」とよぶ。ダーガパはサンスクリット語の「ダートゥガルパ(世界の子宮や舎利を蔵するところの意)」に由来する。スリランカには様々な規模の仏塔が建立されていが、特にアヌラーダプラの三大ダーカバ(ルワンウェリ・セヤ、アバヤギリ、ジェータバナ)は最大級の規模を誇る。仏塔の形態は、インドの基本的なストゥーパを継承し、基壇上に覆鉢状の塔身を築き、その上に平頭と傘蓋部を載せる。基壇部は方形や円形を数段重ねるが、覆鉢直下の基壇は三重の円形基壇が基本である。傘蓋部は円錐形となり宝輪を何段も刻む。このため、規模の小さい仏塔は基壇部、傘蓋部と塔身部との均衡上、全体的として細高い姿になる塔も多い。また、塔身部の上部には漆喰で葉の装飾が施されることが多い。
 古くは、規模の小さくても重要な塔は、周囲に八角柱が三重に配されていた。。この柱は欄楯説、幢柱説、燈明台説などがあるが、壁と丸屋根で塔を覆ったとも考えられる。この完存例はないが、アヌラーダプラのトゥーパーラーマなどの周囲に遺る石柱や、ポロンナルワのワタターゲなどにその痕跡を留める。
 また、四方にヴァーハルカダとよばれる突出部をもち柱を建て彫刻で装飾した塔もみられ、南インドのアマラヴァティとの関連を窺わせる。この例としてミヒンタレのカンタカ・セティヤなどが挙げられる。
 以上、スリランカはインドの仏塔の基本形をほぼ継承しつつ、覆鉢直下の径がほぼ同じ三重の円形基壇や、大きな箱形の平頭、円錐形の傘蓋、そして並はずれて覆鉢部が大規模な塔が多く造られたところに特徴がある。


 
 最大規模のルワンウェリ・セヤ
 
塔身上部の装飾
  テッサマハーラマの村の寺院


 屋根に覆われる塔

ポロンナルワのワタタゲ仏塔
  アヌラーダプラ考古博物館蔵の模型  スリランカ最古のトゥーパーラーマ・ダーガバ

四方に突出部をもつ塔

 
カンタカ・セティヤ


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