パキスタン(ガンダーラ)の仏塔の概要

  
  パキスタンは本来のインドの西北部にあたり、中央アジアや西方と接する交通の要衝であり、釈尊在世当時の十六大国の一つに「ガンダーラ王国」が仏典に記されている。ガンダーラの中心はペシャワール渓谷であるが、前1世紀中葉頃から成立するガンダーラ美術の文化圏は、東接するタキシラ、北方のスワート渓谷やディール渓谷、西方のアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈の南麓のベグラム盆地に及ぶ。パキスタンに遺存する仏塔も概ねガンダーラ美術の文化圏に分布する。
 ガンダーラは、前4世紀末のアレクサンドロス大王の侵攻による混乱を経た後、マウリヤ朝の支配下にあった。アショーカ王の磨崖碑文も確認されており、この頃までには、この地に仏教が伝わったと考えられる。またアショカ王の造塔に起源をもつストゥーパとしてタキシラのダルマラージカなどが挙げられる。 マウリヤ朝の衰退後、ギリシア人、サカ族、パルティア族が西北インドに進出し、これにともない西方と東方の文化交流、融合が進んだ。前2世紀頃にはバクトリア・ギリシア人によるインド・グリーク朝が成立した。仏僧ナーガセーナと問答を交わしたことで知られるメナンドロス1世(ミリンダ王)の名を刻む舎利容器も出土していることからも、仏教信仰がこの時期も盛んであったことが知られる。さらにサカ族、パルティア族が相次ぎ侵入して西北インドを支配した時期の前1世紀中葉にガンダーラ美術が出現したとされる。「双塔の鷲のストゥーパ」が残存するタキシラのシルカップはこの時期の都市の遺跡とされる、
 ガンダーラ美術は、1世紀から3世紀に中央アジアからインド北部を支配したクシャーン朝はのもとで仏像が出現し隆盛を極めた。特に2世紀のカニシカ王は、都プルシャプラのカニシカ大塔をはじめ、多くの仏寺・仏塔を建立するなど仏教を保護した。クシャーナ朝の衰退後、ガンダーラはイランのササーン朝の支配をうけ、4世紀末から5世紀にはクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝が成立するが、この間も仏教寺院や仏塔の建立は継続した。5世紀半頃、エフタルの侵入によりガンダーラの仏教寺院は打撃をうけた。7世紀前半に西突厥の保護を得た玄奘がこの地を訪れた時は、カニシカ大塔や各アショーカ王塔、本生譚に由来する塔が、健駄邏国(ガンダーラ)、烏仗那国(ウッディヤーナ)、呾叉始羅国(タクシャシーラー)などに遺存していたようでる。(烏仗那国はスワート、呾叉始羅国はタキシラ)
 8世紀以降、イスラーム勢力が西北インドに拡大し、仏教は衰退した。
 
  この地方では、マニキャーラ、タキシラのダルマラージカなど円形基壇をもつ従来の塔も造られたが、塔門はつくられておらず、代わりに基壇に壁柱を刻んだと思われる。この基壇部が著しく発達したことが、この地方の塔の最大の特徴である。基壇部も含めて以下の点がインド西北部の塔の特徴としてあげられ、他の地域にも影響を与えたと思われる。
①基壇部の下方が方形でつくられたこと
②何段にも重ねられた方形、円形の基壇部には壁柱の間に仏龕として仏像を安置したり、浮彫が施される
③覆鉢部が高さを増した円形基壇と一体化し、全体の姿が上部にふくらみを持つ円筒状になる

 カニシカ大塔はガンダーラ地方では古くから有名であるが、現存はしておらず、すでに痕跡を留めない。カニシカ王が建立した大塔「雀離浮図」と推定されたペシャワールのシャー・ジー・キー・デリーは、発掘の結果によれば、87m四方の基壇で四方に階段がつき四隅に小塔が造られていたという。これは支那僧の宋雲や玄奘の記録とは必ずしも一致しないが、発見された舎利容器からカニシカ大塔であると認められている。塔の形態について、520年頃に訪れた宋雲は「塔の基部は周三百余歩、木造十三重」、傘蓋は「十三重、高さ三百尺の鉄柱に支えられて総高は七百尺、傘蓋には宝鐸がつき、風によって音をたてていた」と記す。620年頃に訪れた玄奘は「塔の基部は一周一里半、基壇は五層で百五十尺、頂部には二十五個の傘蓋」がつくと記し、支那の楼閣建築を想わせる内容であるが、実際の塔身がどのような形であったかは判らない。
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