ネパールの塔婆の概要

〈 ネパールの仏教の現況 〉
 現在、ネパール国内人口の約10%が仏教徒であり、ネパール仏教、チベット仏教、上座部仏教が信仰されている。
 ネパール仏教は、カトマンドゥ盆地のネワール族(現在のネパールの人口の5%強)の仏教であり、インドの大乗仏教の伝統、出家教団をもたない在家仏教、カースト制度の存在などの特色をもつ。チベット仏教は、ネパールが古くよりインドとチベットの仏教の中継地として往来が盛んであったことから、ネパールにも流入した。上座部仏教は近年に導入された。
 
 〈 仏塔の所在地 〉
   ネパール国内の仏塔を巡る上で重要な地は、インドと国境を接する南端の釈尊の生誕地であるルンビニー及びその周辺を含む タライ平原 と、スヴァヤンブーナート、ボダナート、ナモーブッタの三大霊塔のある カトマンドゥ盆地 である。
 タライ地方は現在はネパール国内だが、文化的には北インド文化圏であり、アショーカ王の石柱も発見されている。
 カトマンドゥ盆地が、古代よりネワール族の王国が興亡を繰り返し、『大唐西域記』巻第七の「尼波罹国」もこの地を指すと思われる。18世紀中頃にはヒンドゥー教徒のゴルカ王に征服されるが、盆地のカトマンドゥ、パタン、パクタプルなどの都市や周辺の聖地や僧院(バハとバヒ)、広場、通り(マルグ)に大小様々な多くの仏塔、奉献塔が建立されている。
 
  〈 ネパールの王朝と仏教 〉
  カトマンドゥ盆地に仏教が伝えられた時期は明らかではない。パタンにはアショーカストウーパとされるものがあるが、実際の創建はアショーカ王時代に遡る物ではなく、アショーカ王の石柱もカトマンドゥ盆地では発見されていない。5世紀中~8世紀にかけてリッチャヴィ朝の時にはシヴァ神を尊崇する王族の中には仏教寺院が建立する者も現れた。ネパールで最も重要なスヴァヤンブーナート仏塔はブリシャ・デーバ王(4世紀末~5世紀初)が建立したネパール最初の寺院との伝承をもつ。7世紀に玄奘は直接訪れてはいないであろうが『大唐西域記』巻第七の「尼波罹国」ではヒンドゥー寺院と仏教寺院が密集し、大小二乗を兼学していたと記録している。また、チベットの伝承では、7世紀初のチベット王ソンツェンガンポ王の妃として迎えられたネパール王女は、唐からやはり妃として迎えられた文成公主と同様に釈尊像をチベットへ伝えたとされる。
9世紀から始まるデーヴァ朝下では、密教が盛んとなった。13世紀頃、ネワール族のマッラ朝がおこった時期は、仏教が滅亡したインドから多くの仏教徒が移り住んだと思われる。ネパール仏教の特色であるカースト制度もこの王朝下で確立した。17世紀には、この王朝は、バクタブル、カトマンドゥ、パタンの3王国に分裂した。18世紀中頃にゴルカ王国がネパールの統一に乗り出し、1769年までにカトマンドゥ盆地のマッラ朝の三王国を滅ぼし、ネパール王国が成立した。このシャハ朝のもとではヒンドゥー政策が強化され、多くの在家仏教徒が改宗した。
 
   〈 ネパール仏教の僧院と仏塔 〉
 ネパール仏教の寺院は「バハ」と「バヒ」に大別される。バヒ、バハは 、サンスクリット語で僧院を意味する「ビハーラ(Vihara)」のネワール語である。バヒは出家僧侶のサンガが運営し市街地の周縁に建てられることが多く、バハは在家僧侶のサンガが運営し市街地に所在することが多い。
 僧院は中庭を囲む木造二階建ての方形に造られ、平面的には口字型になる。入口の反対側の一階に本尊を祀り、二階部は密教堂が設けられる。仏塔は中庭に1基~数基配置されている。このうち、寺院の正規の塔は入口から本堂への中央軸線上に配され、他の塔は信者が寄進した奉献塔であることが多い。
 僧院によっては、中庭が隣接して附属する場合もあり、奉献塔などの宗教施設が設置されていることもある。また、中庭を囲む建物の一部が個人住宅や商店に改築されたり、取り壊されたりしている例も多い。僧院の入口は道路側に設置されるが、隣接する中庭型の住宅の区画に繋がる通路がある場合も多い。
パタンには166、カトマンドゥに106、バクタプルに23の僧院がある。
 
  〈 ネパールの仏塔の特色 〉
  ネパール仏教では仏塔は、ストゥーパとチャイトヤに大別される。ネパールに限らず、ストゥーパは本来は舎利を祀る仏塔、チャイトヤは奉献塔のような舎利を納めない小仏塔を指す。またチャイトヤはネワール語で「チー・バー(小さい寺院)」とよばれる。ただし、スヴァヤンブーナートの仏塔は「マハー(大)・チャイトヤ」と称する。
 ネパールの仏塔の最も顕著な特色は、伏鉢の上の平頭の四方に描かれた「眼」であろう。スヴァヤンブーナートの仏塔は創建当初から何度か修復されているが、1372年の修理で現在のような姿になったという。この修理の直前に描かれた同塔の絵には眼がないことから、四方に「眼」が描かれるようになったのはこれ以後のことであろう。仏塔の四方の仏龕には阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就または、東南方に毘盧遮那仏を加えて五仏を祀ることがある。
  比較的大型の塔は、塔身が伏鉢型の仏塔や、卵形になるチベット式仏塔であるが、チベット式仏塔にも四方に眼のある平頭を有するものが多い。他に祠堂の上に塔身を載せる塔や、塔身が四方仏に覆われた奉献塔、ヒンドゥー教のヨーニど一体化した奉献塔の他、多用である。
 奉献小塔の中にはリッチャヴィ時代に遡る物もあり、原則として一石から彫り出され、下から順に「基壇」「仏龕」「塔身」「平頭相輪部」からなる。マッラ時代になると構造が複雑となり、煉瓦やラテコッタを材質とする塔も造られた。また、石膏を塗布して補修する儀礼が度重なりなされ、或いは龕が空であるような小仏塔を「アショカ・チャイトヤ」とよぶ。龕が空であるのは、地元伝承では、アショーカ王が仏像を彫る前にこの地を去ったからだというが、近年の研究では、特別の祭礼の時に礼拝対象を安置したと考えられている。アショーカチャイトヤはパタンに150基ほど、カトマンドゥに133基ほど確認されている バクタブルにはチー・バーは167基以上あり、これらのすべてを右回りに周回する儀礼があるという。
 
  〈 ネパールの層塔建築 〉
 カトマンドゥ盆地には煉瓦と木で造られた層塔建築が多く存在するが、いずれも仏塔ではなく、その多くはヒンドゥー教の神祠である。



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