朝鮮半島の寺塔建立略史

   
三国時代(4~7世紀中)

 朝鮮半島に仏教が中国より伝来したのは三国時代と伝えられる。

 
高句麗 では小獣林王2年(372)に、秦王の符堅が、仏像・経典とともに僧の順道を派遣したとされ、3年後には肖門寺、伊弗蘭寺を創建した。(『三国史記』)寺院遺構としては、平壌市付近の定陵寺(5世紀初)、金剛寺に比定される清岩里廃寺(483年)、上五里廃寺などが確認されている。伽藍は平面が八角形の塔を中心に三方を金堂で囲む「一塔三金堂」が一般的であったとされる。

 
百済 に公式に仏教が伝えられたのは、枕流王元年(384)に東晋からインドまたは西域僧の摩羅難陀が渡来し、翌年に首都漢山に寺院を創ったのがはじまりとされる。聖明王(523~554)が、梁へ使者を派遣して経典や工匠、画匠を求めたり、日本へ経典や仏像を贈っていることから、この時期には仏教が盛んになっていたと思われる。寺院遺構は都の熊津(現・公州)、泗沘(現・扶余)付近に確認される。6世紀中頃以降に創建された陵寺、王興寺、金剛寺、、軍守里廃寺、定林寺の伽藍は平面方形の塔が金堂の前に配される「一塔一金堂」であり、7世紀前半とみられる益山の弥勒寺は「一塔一金堂」が3区画を併置されたものと見られる。   


扶余 陵山里廃寺復元模型
(陵山里古墳群博物館)
 
益山 弥勒寺復元模型
(百済歴史文化館)

     
 
新羅 に仏教が伝来、定着したのは高句麗、百済から遅れ、法興王十四年(527)に異次噸の殉教により仏教を認めさせたという伝説が『三国史記』に記録されている。この法興王十四年に興輪寺の建設が始められ、さらに真興王十四年(553)に、皇龍寺が建てられ始めた。皇龍寺の九重の木塔は643年に発願され、百済の工匠を招いて645年に完成した。この九重塔が建立された時の伽藍配置は、方五間方形の塔の北に、南面する3棟の金堂が並置され、高句麗にも百済にも見られない特殊なものになっている。


慶州 皇龍寺復元模型
(慶州国立博物館)


   統一新羅時代(7世紀中~10世紀前)

 統一新羅時代には華厳宗や密教が貴族を中心にひろまった他、中期以降には浄土教が庶民にも普及し、後期には禅宗も盛んになり、山地にも寺院が多く建立された。伽藍配置は「双塔式」のものが出現し、慶州の四天王寺や望徳寺、感恩寺、仏国寺など多くの寺院がこの配置をとる。

   高麗時代(10世紀前~14世紀末)

 高麗時代も仏教は篤く保護され、初代国王の王建が都の開城に建立した法王寺、王輪寺、興国寺などをはじめ多くの寺院が各地に創られた。仏教は、風水思想とも関連しながら王室から一般庶民に至るまで広く信仰され、宗派では華厳宗・天台宗に禅宗が大きな勢力をもった。
 1067年に完成した開城付近の興王寺は、東西に三つの伽藍が並置され、中央伽藍は平面八角形の木塔(外部を金、内部を銀で装飾した「金塔」と伝えられる)が2基が、金堂の前に建てられる配置をとり、三国時代の百済の弥勒寺の配置、高句麗の八画平面の塔、統一新羅の「双塔式」の要素が含まれている。
 他の多くの寺院では「一塔式」が多いが、百済や高句麗の伽藍配置とは少し異なり、やや自由な配置をとる。南原の万福寺は文宗(1046~83年)の時に創建された伝えられる寺院で、東に五重塔、西に金堂を並置するという記録がある。実際には、発掘調査により万福寺は中門の北に木造塔を、規模の異なる3つの金堂(西の金堂が最も大きい)が囲む配置が確認されている。この時期に伽藍の形式や仏堂の名称も大きく変化し、次の朝鮮に継承された。

   
朝鮮時代14世紀末~1910年)

 朝鮮時代には儒教が盛んになる一方、仏教は排斥された。初期の各王は排仏と崇仏の間を揺れ動いたが、第9代の成宗(1457~95)以後は崇儒抑仏の方向は確定的になり、仏教と僧侶は国家から認められない存在となり、都市部の寺院の多くは廃された。しかし、地方の山地寺院はすでに独自の経済基盤をもち、一般庶民の支持を得て勢力を保った。

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