インドの仏塔の概要 
 
 1.はじめに
  紀元前5世紀に悟りを開かれた釈尊がガンジス川流域で仏法を説かれた後に80歳で涅槃に入られてより、インドの各地で様々な仏塔が建立された。仏塔は仏教とともに世界各地に広まっていった。しかし、1203年にインド仏教最後の牙城ヴィクラマシーラ僧院がイスラーム勢力により破壊され、インドの仏教は近代の復興運動がおこるまで衰退した。そのため、仏塔の発祥地インドでは、建造物として往時の姿を概ね伝える仏塔は、わずかにサンチーの第一塔と第三塔のみであり、他は基壇や覆鉢がのこるのみである。ただ、小型の奉献塔や、石窟寺院に安置された石造塔、塔を表現した浮彫などから、かつてインドに建立されたであろう様々な仏塔の姿がみられる。以下、インドの仏塔を現在のパキスタン、バングラデシュを含めて概観する。
 
 2.仏塔の語義 〜「ストゥーパ」と「チャイティヤ」〜
 仏塔の語源は「ストゥーパ(stupa)」であり、これが「卒塔婆」と漢訳され、簡略化され「塔婆」さらに「塔」と略された。ストゥーパとは本来的に「頭髪、毛髪の房、頭の頂部、家の主梁および頂上」などを意味し、やがて「堆積、土の積み重ね、火葬堆」を意味した。
 「チャイティヤ(caitya)」も塔の原語の一つであり「支提」「制多」と漢訳される。チャイティヤとは本来的には「神聖な樹木」「聖火壇」「供犠祭の祭場」などを指している。またチャイティヤは「祠堂」を意味することもあり、石窟寺院は仏塔を祀るチャイティヤ窟が、僧の住居であるヴィハーラ窟とともに開かれている。
 『摩訶僧祇律』によれば仏舎利を納めるものを塔(ストゥーパ)、仏舎利を納めないものを制多(チャイティヤ)と区別して記す。 
 
 3.仏塔の起源伝承
 釈尊が涅槃に入られ火葬された後に、仏舎利(遺骨)を求めた8つの勢力が争ったが、バラモンの調停により、仏舎利は8等分された。そこで仏舎利を祀る8基の「舎利塔」及び、仏舎利を分配するときに使用した瓶を祀る「瓶塔」と、火葬時の灰を祀る「灰塔」(或いは灰は残らず、炭を祀る「炭塔」とも)が各1基、あわせて10基の塔が建立され、これが仏塔の起源とされる。
 この8基の仏舎利塔はクシナガラのマッラ族、パーヴァーのマッラ族、アッラカッパのブリ族、ラーマガーマのコーリヤ族、ヴェーディーパのバラモン達、カピラヴアストゥの釈迦族、ヴァイシャリのリッチャヴィ族、マカダ国のアジャータシャトル王がそれぞれ建立した。瓶塔は仏舎利の配分を調停したバラモン僧ドーナが、炭塔は分配後に到着したピッパリヴァナのバラモン(またはモーリヤ族)が荼毘所の炭を持ち帰り建立した。また、仏教教団の出家者たちは釈尊の遺命により造塔や塔供養には当初は関わらなかった。
 舎利八分伝承に関して、ピプラワの塔が8基の舎利塔の1つであり、カピラヴァストゥの釈迦族が建立した塔で、出土した舎利が釈尊の真骨であるともいわれる。舎利が納められていた壺には「このシャカ族の尊きブッダの舎利容器は、栄えある兄弟・姉妹、息子たちとその妻たちが一緒に(寄進したものである)」と刻まれ、これにより納められた舎利が釈尊の真骨だとされるが、この碑文を「これはシャカ族の尊きブッダの親類の、栄えある兄弟・姉妹、息子たちとその妻たちの遺骨の容器である」と解釈する説もある。ヴァイシャリの4回にわたり増広された古塔の中核塔も釈尊の時代に遡りうるものとされるが、いずれの塔も最初の仏舎利塔とする決めてはない。

ピプラワ塔出土の舎利と容器
1971〜74年の再発掘で出土
(ニューデリー国立博物館)

ピプラワ塔出土の舎利容器
碑文を刻む1898年出土の容器
(カルカッタインド博物館)

 ヴァイシャリの古塔
 
 
 4.アショーカ王の造塔伝承と仏塔の拡大
 紀元前3世紀中頃にインドを統一したマウリヤ朝のアショーカ王は、8基の仏舎利塔のうち、龍王が守るラーマガーマの塔を除く7基の塔から取り出された仏舎利を細分し、領内に8万4千基の塔を建立したと伝えられる。
 このアショーカ王が建立した仏塔をそのままの形で伝えるものはないが、サンチー第一塔、サールナートのダルマラージカ塔、タキシラのダルマラージカ塔等の中核の煉瓦積みの塔はアショーカ王時代に遡るとされ、王が塔とともに造立した法勅を刻んだ石柱の一部も付近に現存する。これ以後、アショーカ王の仏教保護策もあり、在家信者の支持により教団勢力は拡大し、礼拝対象として仏塔の新たな造立も盛んとなったようである。、また、従来の塔は石積みなどで盛んに増広され、塔門・欄楯なども木から石に作り替えられ、やがてサンチー第一塔に見られるような形式が確立したと考えられる。 さらに、伝承では釈尊の舎利ではなく、過去仏の舎利を祀る仏塔や、高弟の舎利、釈迦族の遺骨を祀る塔や、仏髪、仏歯を納めるという仏塔も造られ、在家、出家を問わず仏塔信仰は広まっていったと思われる。
 

サンチー第1塔
 5.仏塔の初期形態 〜サンチー大塔〜
  最初の8基の仏舎利塔や、アショーカ王が造立した仏塔は現存せず、その形態は判らない。しかし、アショーカ王が建立したとされる煉瓦造りの原塔を、前2世紀頃にシュンガ朝期に増広したサンチー第一塔が、初期の仏塔の形態を伝えていると考えられる。
 その形態は下から円形の基壇(メーディー)、半球体の覆鉢(アンダ)、方形箱型の平頭(ハルミカー)、傘竿(ユーパ)と傘蓋(チャットラ)が重ねられたもので、覆鉢の高さは直径の半分程度となる。さらに塔をとりまく欄楯(ヴェーディカー)があり、四方には塔門(トーラナ)を開き、塔を右繞礼拝する繞道(プラダクシナ)が設けられている。「アンダ」は「卵」の意味で、宇宙の始まりに生まれた「黄金の卵・胎児(ヒランニヤ・ガルパ)」と関連する。「メーディー」は「犠牲」を意味する「メーダ」に由来する。「ハルミカー」は、「大きな堅固な建物、城塞、宮殿、楼閣」などを意味する「ハルミヤ」に由来する。「ユーパ」は祭祀の時に犠牲の動物が繋がれる「祭柱」のことである。
 仏塔は、古典的な説明では仏舎利を埋めた土饅頭状の塚がまず造られ、その上に日除けの傘が建てられ、やがて下部には土留め、または尊崇の念、或いは繞道が高められることにより、基壇が築かれ、仏塔の初期の形式が成立したとされる。つまり、仏塔を構成する基壇、覆鉢、平頭、傘竿・傘蓋の四部分のうち、塔身の本体は覆鉢部ということになる。この半球体の覆鉢は当時の小屋の丸屋根を模倣し、墓が死者の家として造られる他の例と同様に、仏塔も釈尊の家を意図して造られたとされる。
 これに対して、心柱(ユーパ)が仏塔の中枢であるとする説もある。この柱の周りに土が積まれ、次いで柱の周りの土が積み重ねられ拡大し心柱を覆うと、その上に傘竿がつけられたというのである。実際に発掘されたいくつもの仏塔では、柱状の空洞や、腐った木の柱なども確認されている。この柱は柱信仰に基づき、天と地をつなぐ宇宙軸を意味しているという。また、平頭に舎利が納められる例もある。
 
 6.仏塔の形態の変化(1) 〜西インドの塔院〜
 仏塔はその後、基壇の高さを増したり、基壇を重ねることで、塔全体を高くしていく。このような例は紀元前後から特に西インドに多くのこる石窟寺院のチャイティヤ窟に安置された塔にみられる。さらに注目すべきは平頭である。平頭は最下部の箱型の上に段を重ねるが、上方にいくほど幅が広がっていくように造られ、サンチー第一塔の単純な箱型とは異なる。また、このような平頭や、高さを増した基壇を持つ塔は、サンチー第一塔塔門などの塔を表現した彫刻や、奉献小塔で一般的に見られる。

カルラ石窟の塔院窟
   
サンチー第1塔北門
 
 7.仏塔の形態の変化(2) 〜インド西北部の仏塔〜
 2世紀に中央アジアからインド北部にまたがる広大な領土を支配したのがクシャーナ朝のカニシカ王である。カニシカ王は仏教を積極的に保護し、都がおかれたプルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)を中心にインド西北部のガンダーラ地方で仏教文化が繁栄した。
 この地方では、マニキャーラ、タキシラのダルマラージカなど円形基壇をもつ従来の塔も造られたが、塔門はつくられておらず、代わりに基壇に壁柱を刻んだと思われる。この基壇部が著しく発達したが、この地方の塔の最大の特徴である。基壇部も含めて以下の点がインド西北部の塔の特徴としてあげられ、他の地域にも影響を与えたと思われる。
@基壇部の下方が方形でつくられたこと
A何段にも重ねられた方形、円形の基壇部には壁柱の間に仏龕として仏像を安置したり、浮彫が施される
B覆鉢部が高さを増した円形基壇と一体化し、全体の姿が上部にふくらみを持つ円筒状になる
カニシカ大塔はガンダーラ地方では古くから有名であるが、現存はしていない。すでに痕跡を留めないが、カニシカ王が建立した大塔「雀離浮図」と推定されたペシャワールのシャー・ジー・キー・デリーは、発掘の結果によれば、87m四方の基壇で四方に階段がつき四隅に小塔が造られていたという。これは支那僧の宋雲や玄奘の記録とは必ずしも一致しないが、発見された舎利容器からカニシカ大塔であると認められている。塔の形態について、520年頃に訪れた宋雲は「塔の基部は周三百余歩、木造十三重」、傘蓋は「十三重、高さ三百尺の鉄柱に支えられて総高は七百尺、傘蓋には宝鐸がつき、風によって音をたてていた」と記す。620年頃に訪れた玄奘は「塔の基部は一周一里半、基壇は五層で百五十尺、頂部には二十五個の傘蓋」がつくと記し、支那の楼閣建築を想わせる内容であるが、実際の塔身がどのような形であったかは判らない。

ガンダーラ式の奉献塔
(カルカッタ インド博物館)
 
カニシカ舎利容器
(ペシャワール博物館)
 
 8.仏塔の形態の変化(3) 〜インド南部の仏塔〜
 南インドでは、2世紀にインド南部から中部を支配し全盛期を迎えたサータヴァーハナ朝(紀元前1世紀末〜3世紀頃)や、イクシュバーグ朝(3〜4世紀)の時期に最盛期を迎えた。アマラーヴァティーは前者の、ナーガールジュナは後者の代表的な仏教遺跡であり、周辺地域にも多くの仏塔の基壇部が散見される。また、アマラーヴァティーなどから非常に多くの仏塔の浮彫が出土している。これらの例から、南インドの塔の特徴は、すべての塔に完備しているわけではないが、以下の4点である。
@基壇の四方に突出部がある。
Aその突出部には「アーヤカ」とよばれる5本の列柱がたつ。
B入口部や、塔身部に多頭のナーガ(蛇)やブッダ像などの装飾が賑やかに施されている。
C平頭から幾重にも重なる傘蓋が、葉の生い茂るかのように設けられている。
@の四方の突出部はインド西北部などでも見られるが、Aのアーヤカについてはこの地方独特のものである。
 アマラヴァティ大塔は径約50mの南インド最大級であり、ナーガルジュナ(龍樹)ゆかりの「南天鉄塔」ともいわれる。

アマラーヴァティー大塔の模型(アマラーヴァティー)
 
 
アマラヴァティーの浮彫
(ニューデリー国立博物館)
 
 9.仏塔の形態の変化(4) 〜ヴィマーナ建築〜
  インド最大の仏教の聖地ブッタガヤには約50mの方錐型の大塔が聳える。しかし、この塔、即ち大菩提寺はストゥーパではなく、「ヴィマーナ」または「シカラ」とよばれる方形高塔形式の祠堂である。現在の大塔は中央の高塔祠堂を四隅の小塔祠堂が取り囲み、それぞれの先端に覆鉢型の小ストゥーパを戴くが、19世紀の大改修されているので旧態はあきらかではない。しかし、グプタ朝をくだらないクムラハール出土の奉献板はブッタガヤ大塔を模したものとも原型になったものともいわれ、玄奘の記録からも古くからブッタガヤの大菩提寺は高塔祠堂であったと考えられる。
 このようにブッタガヤ大塔は祠堂であり、覆鉢を主として内部に空間のない本来の仏塔と大きく異なる。しかし、時代は遡るがクシャーナ朝のカニシカ大塔もクムラハール出土の奉献板に見られるような高塔祠堂であった可能性が指摘され、さらには仏塔「ストゥーパ」として、覆鉢を主としない方形高塔の存在も認めるべきという見解もある。また、支那の楼閣型塔婆の起源は、西北インドで発達した幾段もの基壇部と支那の楼閣が結びついたとよく説明される一方で、ヴィマーナに楼閣型塔婆の起源を求める説もある。
 パーラ朝(8〜12世紀)の諸王により建立されたインド東部のヴィクラマシーラやソーマプラ僧院の中心となる大塔は十字型の基壇部しか残されていないが、往時は四方に仏龕を設けた高塔祠堂を戴いていたと推測されているが、ストゥーパとしての性格もあったと考えられる。
 13世紀以降の遺構ではあるがブッダガヤ大塔を模した建物が東南アジアのパガンや、チェンマイなどに建てられ仏塔に準じて信仰されている。支那でも金剛宝座式の仏塔はブッダガヤ大塔を模して建てられており、ブッダガヤ大塔は仏塔との関連がきわめて強いといえる。

ブッダガヤ大塔
 
 10.仏塔の形態の変化(5) 〜各地の巨大塔〜
  インドに建立された巨塔としては、クシャーナ朝期のシャーシャー・ジー・キー・デリーの基壇(方形で四方の突出を含め一辺87m)や、時代はかなり降るが、パーラ朝期のヴィクラマシーラやソーマプラ僧院の大塔(方形で四方の突出を含め一辺約100m前後)が知られる。両者とも基壇は四方に方形の突出をもち十字型となるが、後者の突出部の屈曲はより複雑化している。
 基壇部の屈曲がさらに複雑化した巨塔が、ビハール州のラウリヤーナンダンガルフの大塔(円周457m)とケッサリアの大塔(径約105m)である。これら、インドで確認されている巨塔は、スリランカなどのように覆鉢を巨大化させるのではなく、基壇が複雑化・巨大化している。この他、マハーラーシュトラ州のマンセル遺跡でも複雑な基壇をもつ巨大な仏塔(南天鉄塔?)が発掘されているという。祇園精舎近くのオーラ・ジャルなども発掘が行われれば巨大な仏塔遺構が姿を現すかもしれない。

ケッサリア大塔
   
ラウリヤ・ナンダンガル大塔
 
 11.仏塔の形態の変化(6) 〜仏塔と仏像の結びつき〜
  1世紀頃にガンダーラやマトゥーラで仏像が造られ始められた。前述したようにインド西北部のガンダーラを中心に高さを増した塔の基壇部に仏龕・仏像や、仏伝図が彫られた。インド南部のアマラーヴァティなどでは仏塔の表面の浮彫に仏像も彫られた。
 6世紀頃のデカン高原の石窟寺院のチャイティヤ(仏塔)にも基壇部に仏龕が設けられ仏像が安置される例が現れる。それらの仏像は塔の装飾として付した仏伝図ではなく、礼拝の対象としての仏像として塔の前面に安置される。6世紀頃のアジャンターの第19、26窟や7世紀頃のエローラの第10窟にその例みられる。
 屋外の大型塔ではサールナートのダメーク塔は6世紀のグプタ朝期に現在の規模に増広されたが、基壇部の8ヶ所にに仏龕が設けられている。さらに9〜10世紀頃のオリッサ州のウダヤギリ遺跡の主塔は覆鉢部の四方に仏龕が設けられている。また前述の パーラ朝(8〜12世紀)期のヴィクラマシーラやソーマプラ僧院の大塔は四方に仏龕を設けた高塔祠堂と推測されている。
 仏像と仏塔が結合した形態は奉献塔にもよくみられるが、大乗仏教や密教の教義が仏像と仏塔の一体化に与えた影響は大きいであろう。

アジャンタ第26窟

ウダヤギリ大塔
 
 12.おわりに
 仏塔の発祥地のインドではあるが、良好な遺例が少ないのはきわめて残念である。サンチーの塔では覆鉢塔の典型がみられる。しかし、著名なサルナートのダメーク塔は上部が崩壊していることもあり、巨大な円筒型が二段に重なったような奇異な外観を呈している。またナーランダ僧院の主塔も、往時の姿を現状から想像することすら難しい。今後、インド国内で発掘がすすみ、さらなる仏塔の遺構が発見され、インド仏塔の詳細がより明らかになることを期待したい。

サールナートのダメーク塔
 
ナーランダー僧院の大塔
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