バングラデシュ(ベンガル)の仏教僧院

 パーラ朝以前(仏教中国の辺国


 バングラデシュはベンガル人の国という意味であるが、バングラデシュはベンガル地方の東側にあたる(西側いインドの西ベンガル州)。この地域は前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで各王朝の属領であり、仏教やヒンドゥー教の影響を受けていた。玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、この東ベンガルの地には奔那伐弾那国(プンナヴァツダナ)、迦摩縷波国(カーマルーパ)、三摩呾吒国(サマタタ)、羯羅拏蘇伐剌那国(カルナスヴァルナ)などの国々があったとされる。以下に伽藍と仏塔に関する記事を抜き出す。
 奔那伐弾那国(現バングラデシュ西北部)は「大小乗の仏教が盛んで伽藍が20カ所以上と記録される。さらに西北20余里には跋始婆僧伽藍は大乗で、近くにアショーカ王のストゥーパがある」と、記され、都城はマハスタンの都城遺跡、跋始婆僧伽藍はヴァス・ヴィハーラに比定される。
迦摩縷波国(現バングラデシュ中部)は、「ヒンドゥー教を信仰し、仏教の伽藍は未だに建立されたことがない」と、記される。
 三摩呾吒国(現バングラデシュ東部)は、「小乗の伽藍が30余カ所で、都城から遠くないところにアショーカ王のストゥーパがある」と記される。
羯羅拏蘇伐剌那国((現バングラデシュ西南部))は、「小乗の伽藍10余カ所、都城の側の絡多末知僧伽藍(赤泥寺)から遠くないところにアショーカ王のストゥーパがあり、さらにその近くにもいくつかのアショーカ王のストゥーパがある」と記される。
 

 パーラ朝(後期インド仏教の中心地)

 8世紀の中頃には、ゴーパーラ(位750年~70年)がベンガルからビハール地方を支配するパーラ朝をひらいた。2代目ダルマパーラ(位770年~815年)は仏教の熱心な保護者で多くの僧院を建設した。3代目デーヴァパーラ(位815年~54年)の時にはアッサムやオリッサ地方にも勢力を拡大した。その後、東方から北インドのプラティハーラ朝の圧迫をうけ、ビハール西部のガヤ地方を失った。11世紀はじめにビハールの失地を回復したものの、すぐに南インドのチョーラ朝や、ベンガルのセーナ朝などの圧迫に苦しみ、1150年には滅亡した。この王朝のときに盛んであった仏教は、密教(タントラ仏教)で、後期インド仏教の中心地であり、チベット仏教にも影響を与えた。
パーラ朝の歴代王が建立した大寺院として、インドビハール州のオーダンタプリOdantapura寺(初代ゴーパラ王)、ヴィクラマシーラVikramasila寺(2代ダルマパーラ王)、バングラデシュのソーマプラSomapura寺(2代ダルマパーラ王または3代デーヴァパーラ王)、ジャガダッラJagaddala寺(11世紀後半から12世紀前半の14代ラーマパーラ王)が知られている。

 パーラ朝以後(インド仏教の終焉)

 12世紀中頃にヒンドゥー教のセーナ朝がベンガル地方を支配し、さらに13世紀初頭に北インドに侵入したイスラーム勢力によりインド仏教は壊滅的な打撃をうけた。1203年にインド仏教最後の砦とされたヴィクラマシーラ寺院がイスラーム勢力により破壊されたことはインド仏教滅亡の象徴的な出来事とされている。

  
  バングラデシュの塔婆
  
覆鉢型塔 
 覆鉢型のストゥーパの遺構としては、モエナモティのコッティラ・ムラの三宝塔が挙げられる(軍管区内にあり、許可をとれば見学はできるが、撮影は不可とのこと)が、他は、小規模な奉献塔を知るのみである。また、マハスタンのヴァス・ヴィハーラに塔址と推定される高まりがある。
  
十字型塔 
 バングラデシュには、パーラ朝の特色である平面十字型の基壇上に、高塔状の塔身を載せた塔の遺構が多くみられる。
 十字型の基壇の起源と考えられる西北インドには、クシャーナ朝のカニシカ王が建立した大塔の跡とされるシャー・ジー・キ・デリーをはじめ十字型基壇のストゥーパがのこる。この十字型基壇の塔が、インドの他地域に拡大するとともに十字の各四方に屈折部を重ね複雑度を増した。バングラデシュには単純な十字型と屈曲をもつ十字型の基壇双方の遺構がある。
 パーラ朝の十字型塔は、十字型を基本とする基壇に方形の高塔をたて、高塔の四方に仏龕を付す祠堂であり、伏鉢型のストゥーパとは異なる形態を有す。しかし、パーラ朝の奉献塔には四方に仏像を安置した壁龕をもつ例が多く見られ、これと似た形態をもつ十字型塔もストゥーパに準じた性格を有すると考えられる。
 
  
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